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歴史

共和国史

国家の組織化と改革

祖国解放戦争で勝利しローザンヌ条約が調印された後、ムスタファ・ケマルはまず、解放戦争中に組織されたアナトリアとルメリアの権利擁護団を統合して共和人民党を結成し、この党の党首となった。国民闘争の意識を文民レベルで持ち続ける共和人民党の目的は、国家の近代化および見本となった西洋的制度、組織および生活様式の実現化であった。

1923年10月29日、最も重要な国家改革である共和制が宣言された。国民闘争の指導者ムスタファ・ケマルは、満場一致で初代大統領に選出された。イスメット(イノニュ)将軍も首相に任命された。しかし、この成り行きは初代議会の保守勢力に不満感をもたらし、さらにカリフ制に基づく組織と人材の新体制との不調和は、根本的な改革の必要性をあからさまにした。

トルコ大国民議会は、共和国宣言発布の4ヶ月後、共和国主義に適合せず、改革の実現段階において障害となることが明らかなカリフ制を廃止し、オスマン家の成員の国外退去が決められた(1924年3月3日)。    

近代的国家および近代的社会を形成するためには、宗教と国政の分離、および個人の信仰と良心の自由の提供が不可欠であった。このため、カリフ制度化の組織であるカリフ制・戒律管理局が廃止され、首相府付属の宗務庁と基金総局が設立された。教育統一法により宗教学校制度が廃止され、全ての教育機関および教育業務は、国家教育省において統合された。裁判組織法によってイスラム法による宗教裁判所を廃止し、代わりに非宗教的裁判所を設立した。1925年11月25日に発布された帽子条例により、ターバンとトルコ帽の着用が禁止され、国民は「西洋帽子」をかぶることになった。1925年1月26日には、世界時と西暦の採用が決定された。1925年11月30日にはテッケ(修行場)、ザヴィエ(小規模の修行場)、テュルベ(霊廟)が閉鎖され、神秘主義教団の活動が禁止された。1926年2月17日、オスマン帝国の基盤ともいえるイスラム法(メジェッレおよびシャリ-ア)に代わり、トルコ民法が採用された。これに並行して、債務法、刑法および商法も、現代的な基本原理を踏まえたかたちで再編された。

一夫多妻制の禁止や、離婚に関する裁判所の権限は、女性の権利改善に対してまずはじめに下された決定である。トルコ人女性は、ほとんどのヨーロッパ諸国の女性より早く、1930年に地方行政、1933年に長老参事会、1934年にはトルコ大国民議会において選挙権と被選挙権を得ている。

国家教育省によるトルコ式アルファベットの準備作成と、作成されたラテン式文字の使用に関する法案は、1928年11月1日にトルコ大国民議会で承認された。1931年には度量衡が改定された。計量法の承認により、商業および経済業務が簡易化され、国内において標準の測定秩序が整備された。

1934年6月21日に、姓氏法が制定され、近代国家トルコ共和国の建国者、ムスタファ・ケマルに「アタチュルク」(父なるトルコ人)の名字が与えられた。

1928年に「国家の宗教はイスラム教である」という一文が憲法から削除された。1937年にはトルコ共和国が世俗主義(政教分離)国家であることが、憲法に明文化された。1925年にトルコ歴史協会、1932年にはトルコ言語協会が設立された。 アタチュルク時代における内外政策

アタチュルクは、改革を国民全員に認めさせる決意を持っていた。しかしながら国家を建設した改革派の共和人民党内部においてさえ、反対意見が高まりはじめた。実現された改革がトルコの社会的・政治的構造に不適当であるとの考えを持つラウフ・オルバイ、キャーズム・カラベキル、アリ・フアト・ジェベソイなどの祖国解放戦争を指揮した一部将校も含む反対派が、共和人民党から離脱し、進歩共和党を結成した。この政党の党首にはキャーズム・カラベキルが選出された。南東部アナトリアにおける保守派シェイフ・サーイドの反乱をもって、政府は1925年6月3日に進歩共和党を解党した。

アタチュルクの最も大きな理想は、多党政治への移行であった。このため、元首相のフェトヒ・オクヤルに自由党を結成させた。イスメット・イノニュに対して反対の立場を取ることで知られるフェトヒ・オクヤルが指導者であるこの党は、国民から大きな支持を得て予想外に発展しはじめたが、フェトヒ・オクヤルがイズミール視察中に発生した衝撃的な事件により、1930年11月17日に解党した。

共和国初期の特色に、国家協定と和平に重点を置いた外交政策があげられる。卓越した外交によりイスタンブールとチャナッカレ海峡は、国家防衛システムの一部となることとなり(モントルー条約、1936年)、バルカン協商(1934年)とサダーバート条約によって、全ての近隣諸国に適用された親交政策が広まることとなった。

ハタイは、アタチュルクが関わった最後の外交問題となった。ダイナミズム、的確な予想、力関係の正確な計算、内的および外的条件の確かな評価で知られるアタチュルクが1938年11月10日に永眠したとき、あとには、ハタイ問題が解決され、西欧モデルに則した進歩の道を確かに歩み始め、近代化した組織と改革をしっかりと身につけた国が残ったのである。

イノニュ時代と戦時下の危機

アタチュルクの死後、第2代大統領として選出されたイスメット・イノニュは、トルコを1939年に始まった第2次世界大戦の外域におくことに成功した。1939年8月23日に独ソ条約が調印されたとき、この同盟がトルコに不利な結果を招くであろうことを察知したイスメット・イノニュは、フランスとイギリスに対し和平を結び、トルコが経済援助を受けられるようにした(1939年10月13日)。ソ連邦とも不可侵条約を結び(1941年3月25日)、ドイツとも、ドイツのソ連侵攻数日前に不可侵条約を結んだイスメット・イノニュは、この均衡政策を大戦中も続けた。

大戦終結の直前、アメリカ、イギリスおよびソ連邦側につき、ドイツと日本に宣戦布告したトルコは、1945年6月26日にサンフランシスコ会議に招待され、国際連合憲章に調印し、国際連合の創設メンバーの一員となった。  

複数政党制時代への移行

フアット・キョプルル、レフィク・コラルタン、ジェラル・バヤルおよびアドナン・メンデレスは、歴史上「四者動議」として知られる有名な提案を共和人民党の議会委員会に提出、4人は内律と規則の変更を求めた。提案が却下されるとバヤルは党を脱退し、国会議員職からも辞 職した。メンデレス、キョプルルおよびコラルタンは、党内規則に従わなかったとして共和人民党から除名された。「四者動議」の署名者たちは、1946年1月7日に民主党の結成を発表した。民主主義と自由経済論の代弁者となった民主党は、予想以上に急速な発展を遂げ、1946年の総選挙で議席を獲得、1950年の総選挙においては単独政権発足に成功した。1954年の総選挙においてさらに票を増やし、政権を確固たるものとした民主党は、1957年の総選挙において獲得票を減らしたものの、1960年5月27日まで政権を維持した。  

共和人民党政権下において支持され始めたアメリカとの協力は、民主党政権時代に入り、外交関係に新局面が開かれた。ミズーリ艦のイスタンブール訪問、トルーマン・ドクトリン、マーシャル・プランの適用開始と、アメリカによる初めての経済的・軍事的援助の開始は、イノニュがこの路線で築いた基盤をさらに頑丈なものとした。トルコは民主党政権期において朝鮮戦争に軍隊を送り、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国となった(1952年)。  

1954年の総選挙以降、文民および軍官僚の財政状態が悪化しはじめた。国民の不満に対し野党やメディアも批判を強めた。これに対し与党は、批判に対する弾圧をして事態解決を目指した。第一野党の党首イスメット・イノニュの地方遊説において行われた妨害やメディアを抑制するために使われた手段、国会によって組織された「調査委員会」は緊張感を高め、体制批判へとつながった。  

5月27日と干渉期
軍部内の様々なレベルで組織化した士官グループは、1960年5月27日早朝、計画どおり実行に移り、10年間に渡った民主党政権を倒して政権を掌握した。クーデター宣言が放送され、この行動はいかなる個人もしくは団体に対して行われたものではなく、北大西洋条約機構(NATO)や中央条約機構(CENTO)に対して忠実であり、できる限り早期に選挙を実施し、政権の民政へ移管するつもりであることが伝えられた。クーデターを敢行した士官たちによって「国家統一委員会」(MBK)が組織された。陸軍総司令官ジェマル・ギュルセルが、国家、政府、および国家統一委員会の代表に就任した。MBKに立法権が付与され、1960年6月17日、ほとんどが文民からなる内閣が結成された。

1961年1月5日に制憲議会が召集された。制憲議会が最終的な調整をした憲法は、1961年7月9日に行われた国民投票によって施行された。1961年憲法によって新たに定められた最重要事項は、国民議会(下院)と共和議会(上院)の二院制議会の採用だった。MBKは、1961年10月15日に行われた総選挙をもって民政移行を実現した。憲法の規定どおりMBKの22委員は「存続議員」として議会入りし、ジェマル・ギュルセルは大統領に選出された。前大統領、首相、閣僚、国会議員および関係官僚は1960年5月27日朝、軍事大学校において逮捕された。ヤッス島に設置された「高等司法裁判所」は、「憲法違反」の罪で裁判が行われていた15人の民主党政権メンバーに対し、死刑の判決を下した。このうち12人はMBKによって終身刑に減刑された。1961年9月16~17日、民主党政権当時首相だったアドナン・メンデレス、外相ファティン・リュシュテュ・ゾルル、そして財務大臣のハサン・ポラトカンの死刑が、イムラル島において執行された。その他の逮捕者は、1964年までに恩赦によって釈放された。

激動期と公正党

1961年10月14日に行われた総選挙において、退役陸軍大将ラーグプ・ギュムシュパラが党首の公正党(AP)と、クーデター政権において財務大臣だったエクレム・アリジャンが党首の新トルコ党が、1957年に民主党が獲得した以上の票を集めた。共和人民党は41%から37%まで下落した。

総選挙後、共和人民党の党首イスメット・イノニュが公正党と連立政権を結成して、市民体制への移管を簡潔化させたが、内部のいざこざにより長続きしなかった。この後イスメット・イノニュによる第2、第3連立政権と、スアット・ハイリ・ウルギュプルによる連立政権が続いた。

ラーグプ・ギュムシュパラが1964年に亡くなった後、公正党党首の座に国家水利庁前長官のスレイマン・デミレルが選出された。公正党は1965年の総選挙において得票率53%で単独政権を築いた。この選挙の特徴は、トルコにおいて初めて社会主義政党であるトルコ労働者党が選挙に参加し、14名の議員を輩出したことにある。

3月12日と中間体制

1968年に始まった学生運動は、全ヨーロッパで起こったようにトルコにも広まった。純粋な学生の要求は次第に政治色を増してイデオロギー化し、テロリズムにまで発展していった。このテロリズムを食いとめるため、軍部は1971年3月12日に最後通牒を出した。

新中間体制における第1政権は、共和人民党を辞職したニハット・エリム教授によって組織された。戒厳令が発令され、自由が制限された。

第1次、第2次エリム内閣は厳しい対策を講じたものの、テロの増加を防ぐことができず、フェリト・メレン内閣が政権を握った。これに続くナーイム・タル内閣は、民主主義への移行プロセスを開始した。1973年にトルコ大国民議会において行われた大統領選出投票において「3月12日派」のニハット・エリム首相とオスマン・ボリュクバシュ 候補ファールク・ギュルレルが落選し、公正党と共和人民党の候補で退役海軍大将のファフリ・コルチュルクが当選した。

一方、イスメット・イノニュは共和人民党総裁、党員および議員職を辞任した。直後開催された党大会においてビュレント・エジェヴィットが党首に選出された。

エジェヴィット内閣と「国民主義戦線」

1973年以後の総選挙は、「3月12日」体制を法的に終結させたが、選挙の結果どの政党も単独政権を打ち立てることができず、「連立政権期」が始まり、数々の政権が成立した。総選挙で最も得票率が高い共和人民党(CHP)は、イスラム色の強い国家秩序党(MSP)との連立政権を発足した。この興味深い譲歩は有益な結果をもたらしたとはいえ、世界の景気の変動はトルコ、つまりは政府に影響をおよぼした。世界的な石油危機の後、トルコが以後何年間も関わることになるキプロス問題が表面化した。

ニコス・サンプソンが1974年6月、キプロス大統領マカリオスに対し、エノシス主義のクーデターを企てたため、事態を傍観できないトルコは国際協定による保護権を行使し、キプロス島に対して軍事介入をせざるをえなかった。この軍事介入に対し西欧社会は批判的な態度をとり、アメリカはトルコに流通停止措置を適用した。キプロス作戦以後、外交政策においても不調和が発生し、CHP-MSP連立政権は解散した。首相に任命された指名議員サーディ・ウルマクが組織した内閣は、トルコ大国民議会において信任票を得られなかった。  

新規加入により議席数を拡大した公正党(AP)、国家秩序党(MSP)、民族主義者行動党(MHP)、および共和保障党(CGP)が集まり、議席過半数を獲得した。新内閣組閣にデミレルが任命された。デミレルは1977年の総選挙まで続く「国民主義戦線」(MC)と呼ばれる政府を樹立させた。

1977年の総選挙においても、各党とも単独政権となりうる過半数を獲得できず、デミレルは前政府からCGPを除いた第2次MC政権を樹立した。1974年に始まった経済危機とテロ問題はさらに深刻化した。

1977年12月、CHPはデミレル率いる第2次MC政権を内閣不信任案で解散させた。CHP党首ビュレント・エジェヴィットは、無所属議員11人、DP、CGPの支持を得て新政権を発足させたが、経済はより悪化し、テロはさらに増加した。1979年秋に行われた上院における部分更新選挙でCHPが破れると、ビュレント・エジェヴィット首相は退陣した。AP党首デミレルは、SPとMHPから閣外的支援を得たAP少数政権を設立した(1979年11月25日)。AP少数政権が、国家を経済危機から救うため1月24日に採決した決定は、短期間で効果を表したが、テロ問題を解決することはできなかった。テロ多発県下においては、戒厳令が発令された。一方、1980年上半期において任期満了となるファフリ・コルチュルクの後任としての新大統領選出は、困難を極めていた。

9月12日中間体制(1980-83年) トルコは1980年9月12日、新たな軍部介入を迎えた。介入は、軍部の命令系統における政権の掌握をもって実現した。参謀総長ケナン・エヴレンおよび軍司令官らからなる国家安全評議会(MGK)は、国会を閉鎖し政府を解散させた。国土全土に戒厳令が発令された。AP、CHP、MSPおよびMHPの指導者達は逮捕された。MGKはクーデター後、立憲および行政権を掌握し、評議会代表のケナン・エヴレンが国家元首の座についた。新政府において退役海軍大将ビュレント・ウルスが組閣した。APによる少数政権において首相府次官であり、「1月24日草案」の作成者だったトゥルグット・オザルが、経済担当副首相に指名された。

この時期、経済安定化プログラムは同様に続行された。ATO司令官の名前がつけられた「ロジャース・プラン」がMGKにおいて承認され、国家が長いあいだ続けてきた政策に反する、ギリシャのNATO軍への復帰容認は、外交政策における最も重要な発展であった。

1981年6月、MGKおよび諮問議会からなる「創設議会」の設置が決定された。 諮問議会のメンバーが発表された当日、MGKは活動が禁止されていた全ての政党を解党し、保有財産を差押えた。  

諮問議会の憲法委員会によって作成された新憲法草案に対し、1982年11月7日に国民投票が行われ、草案は91.2%の賛成票によって承認された。新憲法承認とともにケナン・エヴレンが大統領に選出された。新政党法が1983年4月23日に施行され、新政党創設のための政治活動が段階的に許可された。

1983年11月6日に行われた総選挙に、ANAP(祖国党)、MDP(国民民主党)、HP(人民党)が参加した。総選挙において得票率が45.1%だったANAPが、単独政権を樹立した。1983年11月24日に召集された国会で議長団が組織され、MGKの任務はこれをもって終了した。MGKにおける4人の評議委員は「大統領評議会」の委員となった。評議会委員の職務は、大統領の任期満了をもって終了した。

第1次・第2次オザル政権

1983年11月6日の総選挙において単独政権となったANAPは、1987年の総選挙においても政権保持に成功した。オザル政権下の特徴は、オザルの言葉によれば「大変革」であった。次々に行われる思いきった改革によって、トルコ経済はその方向性と外殻を変えた。経済問題が解決し、経済が急速に成長した。    

対ヨーロッパ関係は改善された。トルコとの関係を一時棚上げしていた欧州評議会諮問議会は、トルコ人議員の参加を1984年5月に承認した。ギリシャに対するNATO軍への復帰の承認後、アメリカとの関係は活発化し、修復へと向かった。イラン・イラク戦争において維持された中立体制は、この両国との貿易関係にも良い影響を与えた。

オザル政権期における内政での大きな変化は、1986年9月6日に行われた国民投票において、政治活動の禁止が解除されたことである。ビュレント・エジェヴィットは民主左派党(DSP)、スレイマン・デミレルは正道党(DYP)、アルパルスラン・テュルケシは国民主義活動党(MCP)、ネジメッティン・エルバカンは福祉党(RP)の党首にそれぞれなった。  

1987年に行われた早期総選挙の結果、再びANAPの単独政権となった。社会人民党(SHP)は24.75%、DYPは19.5%の得票率を得た。ケナン・エヴレンの任期満了に伴い、第8代大統領に選出されたトゥルグット・オザルは、1989年11月9日にケナン・エヴレンから大統領の座を譲り受けた。首相となったユルドゥルム・アクブルトは、1989年11月に行われたANAP臨時党大会において、党首に選出された。

ANAPにおける変革と連立政権期
1991年、ユルドゥルム・アクブルトに代ってメスット・ユルマズがANAP党首に選出された。 ユルマズ党首のもと組閣された内閣の最初の仕事は、早期総選挙の実施決定であった。1991年10月21日に行われた早期総選挙で、DYPが27.03%を得票し、第1党となった。これにANAP、SHP、RPおよびDSPが続いた。1991年11月20日、スレイマン・デミレルによってDYP-SHP連立政権が発足した。経済の活発化と被雇用者の実質賃金の増加を、ある程度まで成功させた政府は、民主化の分野でもいくらか前進した。

1991年のソ連の崩壊後、独立したコーカサス諸国や中央アジア諸国との間に、多角的な関係が築かれた。こうしてトルコに、「地域国家」としての新しい道が切り開かれた。1992年6月に行われたサミットによって創設され、コーカサス地方とバルカン半島を含む全ての黒海沿岸を対象とした黒海経済協力機構は、トルコのこの地域における重要性をさらに強調した。

1993年4月17日、トゥルグット・オザル大統領の突然の逝去は、内政における均衡に重大な打撃を与えた。スレイマン・デミレルが大統領に選出された。臨時党大会において、スレイマン・デミレルの大統領選出によって空いたDYP党首に、タンス・チルレルが選出された。トルコ史上初の女性首相となったタンス・チルレルの設立したDYP-SHP連立政権は、1993年6月25日から1995年12月25日の総選挙まで政権の座を維持した。

社会・政治的緊張

1995年の総選挙において、RPが衝撃的な形で21%の得票率を獲得し、第1党となった。しかし1996年3月5日に、メスット・ユルマズを首相とする、「Anayol」として名づけられたANAP-DYP連立政権が樹立された。この政権は4ヶ月しか続かなかった。RPが議会に提出した内閣不信任案をDYPが支持することを表明したため、メスット・ユルマズは1996年6月6日に辞任した。スレイマン・デミレル大統領は今度はRP党首のネジメッティン・エルバカンに組閣を任命した。エルバカンが組閣した「Refahyol」と名づけられたRP-DYP連立政権において、DYP党首タンス・チルレルは副首相兼外相に就任した。この期間保守的反体制勢力の増加から、社会的・政治的緊張が生まれた。

国家安全評議会(MGK)が1997年2月28日の会議で、保守的反体制の危険が増加していることへの危惧を表明したことにより、新局面を迎えた。この緊張期間においてネジメッティン・エルバカン首相は、首相職を連立政権に渡すため1997年6月18日に辞任した。スレイマン・デミレル大統領は1997年6月19日に、タンス・チルレルではなくメスット・ユルマズに組閣を命じた。ユルマズが組閣し、「Anasol-D」として知られるANAP-DSP-DTP(民主トルコ党)連立政権は、1997年7月17日、国会において信任票を得た。この期間、総選挙と地方選挙をまとめた形での早期選挙が、1999年4月18日に行われることが決められた。政府は野党の提出した不信任案によって1998年11月25日に解散した。ビュレント・エジェヴィットによって1999年1月17日に組織されたDSP少数政権が、議会で信任票を獲得し、4月18日の総選挙までの期間、政権にとどまった。選挙の結果、DSP、MHP、FP(美徳党)、ANAPおよびDYPが国会において代表権を得たが、CHPは国内総得票率が10%に至らず、議席を得ることができなかった。DSPは得票率を大幅に上げ、MHPも第2党となった。中道右派のANAPとDYPは、大幅に得票率を下げた。1998年にRPが解党させられたことで無所属になった議員たちによって組織された美徳党も、以前の得票率を維持することができなかった。

任期が始まると同時に、国家治安裁判所の文民化、銀行法、「国際的強化」を目的とした憲法改正、社会保障改革など、重要な事項において新法案の採決に成功した。2000年5月16日に任期が満了するスレイマン・デミレルの後任として、議会を代表する5政党の党首が賛同した推薦案により、憲法裁判所長官のアフメット・ネジデット・セゼルが第3投票において330票を獲得し、トルコ共和国第10代大統領に選出された。

危機後の安定

トルコは、2001年2月に共和国史上最も深刻な経済危機に直面した。政府は、当時の世界銀行副総裁ケマル・デルヴィシュを、経済担当国務相に任命した。国際通貨基金(IMF)と世界銀行から多額の資金が調達された。銀行法が再度整備された。この間国会によって数々の憲法改正が行われ、EUが提示する加盟への整合に関して、重要な進歩が見られた。戦争犯罪およびテロ犯罪以外の罪に対する死刑が廃止された。

国会はDSP-MHP-ANAPによる連立政権の提案により、2002年11月3日に早期選挙を行うことを決議した。 選挙の結果、公正発展党(AKP)(34.28%)と共和人民党(CHP)(19.39%)のみが議席を得た。AKPは全550議席中363議席を獲得して単独政権を握り、CHPは主力野党となった。選挙前に連立政権を担っていたDSP、MHP、ANAPと主力野党のDYPは、10%のボーダーを越えられず議席を得ることができなかった。

公正発展党(AKP)政権
選挙後、AKPのカイセリ国会議員アブドゥラー・ギュルを首相とする第58次内閣が発足した。AKP党首レジェップ・タイップ・エルドアンは被選挙権を再び得た後、シールトで行われた補欠選挙に出馬して当選した後、首相の座をアブドゥラー・ギュルから引き継ぎ、第59次内閣を発足した(2003年3月)。

この時期、AKP党首のレジェップ・タイップ・エルドアンはヨーロッパ諸国の首相と会談し、トルコのEU加盟のための積極的な活動を行い、EU14ヶ国と交渉した。この時期の重要な政治的出来事として、EUのコペンハーゲン・サミットにおいてトルコの加盟交渉に関する事項の2004年12月決定が決議されたこと、政府がイラク戦争のため要求した「トルコにおける外国軍派遣とトルコ軍の国外派遣」権限が国会で否決されたことがあげられる。

この時期に適用された経済政策により、目標成長率に到達し、インフレがおさまった。

またこの時期、輸出量が記録的に増えた。観光業も、基盤整備およびトルコを訪れる旅行者数の面においてめざましい発展がみられた。エネルギー、農業、保健、教育、労働生活の分野において、社会支援プロジェクトおよび改善作業が行われた。

外交政策においては、EU、キプロス、イラクおよび国際的テロリズムに重点が置かれた。EUとキプロスに関しては、重要な進展がみられた。

第59次内閣は、前の政権に引き続きEUとの関係を密に保った。EU加盟への基準整合作業において、トルコにおける必要性をふまえて法的・構造的改革を続けた。国会で多くの法律が審議、承認された。そのなかで、行政の再構築、高等教育審議会(YOK)法に関する改正は、論争の理由となった。

またこの政権期にイスタンブールで発生した爆弾テロ事件により多数の死者が出た。世論、AKP内閣、野党はそろってテロを非難した。

収賄事件や、これに関する捜査も、この政権の議事日程のなかで重要な事項となっている。この過密な議事日程のあいまに、2004年3月28日に統一地方選挙が行われた。

AKPは統一地方選挙で42.09%の得票率をもって、12の大都市および46県で市長の座を獲得した。CHPが18.37%の得票率を得る一方、MHPは10%のボーダーを超えて第3党になった。

DSP党首ビュレント・エジェヴィットは1999年5月28日、DSP-MHP-ANAPによる連立政権を樹立した。新政府は、アフメット・ネジデット・セゼル大統領が2007年5月16日に任期満了となったことをうけて、第11代大統領が選出されることとなったが、トルコ大国民議会(TBMM)で行われた選挙が無効になったため、トルコ大国民議会(TBMM)は2007年11月4日に実施予定だった総選挙を2007年7月22日に繰り上げて行うことを決定し、早期選挙に突入した。  

2007年7月22日に行われた総選挙の投票率は84.25%、有効投票数は3,504万9,691票であった。この選挙により、公正発展党(AKP)、共和人民党(CHP)、民族主義者行動党(MHP)の3党が、党として議席を獲得するのに必要な10%以上の票を獲得し、国会入りを果たした。議席を獲得した政党の得票率は、AKPが46.58%、CHPが20.88%、MHPが14.27%だった。また、無所属候補26人が当選した。  

CHPから出馬し当選した民主左派党(DSP)の議員13人は、総選挙後CHPを離党しDSPに入党した。また、無所属議員のうち20人が民主社会党(DSP)に、1人が大統一党(BBP)に、1人が自由団結党(ÖDP)の党員となった。

こうしてトルコ大国民議会(TBMM)は、グループを結成できる政党(所属議員数20人以上)が4党、党の数としては7党で構成されることとなった。  

2007年8月現在の政党ごとの議員数は、AKPが341人、CHPが98人、MHPが70人、DTPが20人、DSPが13人、BBPとÖDPが各1人である。無所属議員の数は5人に減った。  

2007年8月28日、トルコ大国民議会(TBMM)にて大統領選挙の第3回投票が行われ、カイセリ選挙区より選出された公正発展党(AKP)の国会議員で、第59次内閣の外務大臣であったアブドゥラー・ギュルがトルコ共和国第11代大統領に選出された。そして同日、大統領の座をアフメット・ネジデット・セゼル第10代大統領より引き継いだ。  

2007年8月29日には、第59次内閣のレジェップ・タイップ・エルドアン首相が新しい内閣案をアブドゥラー・ギュル大統領に提出し、承認された。これにより、トルコ共和国の第60次内閣が発足した。